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勇武津資料館(ゆうぶつしりょうかん)

勇武津資料館

勇武津資料館

静川遺跡の次にご紹介したいのは、勇武津資料館(ゆうぶつしりょうかん)です。
この資料館は、とまこまい市制50周年八王子千人同心移住200年を記念して2001年に開館されました。
勇武津資料館に隣接した史跡公園には北方警備と蝦夷地開拓のために移住した八王子千人同心の墓石群があります。また、苫小牧市民会館前庭には「勇払千人同心像」があります。

八王子千人同心像

八王子千人同心像

【八王子千人同心とは・・・】
1590年八王子城が落城すると、徳川家康は甲府との境にあった八王子を、関東入国に際して、甲斐・武蔵の国境警備の重要地点、敵の侵入を阻止する重要な砦と考えたのです。甲斐武田氏の家臣だった小人頭とその配下250人を、八王子城下の治安維持と甲州街道の警備のため、八王子城下に配置しました。後に、千人に増員しました。これが八王子千人同心の始まりです。
八王子千人同心の多くは農村に在住し、ふだんは農耕に従事しながら武芸に励み、有事に備えていたので、幕府直属の武士団としては特異な存在としての、半士半農でもありました。

蝦夷地開拓移住隊士の墓

蝦夷地開拓移住隊士の墓

【蝦夷地の開拓と警備】
江戸幕府は、蝦夷地(北海道)を外国から守ることや開拓することを考えました。これに志願した八王子千人同心千人頭の原半左衛門を隊長とした100名の八王子千人同心が、1800年にはるばる海を渡ってきました。
隊長を含めた50名は白糠場所に向かい、隊長の弟の新助を副士とした50名が勇払場所(蝦夷地でも交易が盛んで大切な所だった)に移り住み、警備・畑作り・道路整備などを行いました。
だが、気候の違う北国の生活はきびしく、犠牲者も多く出て1804年惜しくも解散となり、開墾地などは放棄されました。

【最後に】
この北海道の開拓の基礎をつくったのが、ある意味では「八王子千人同心」といえるかも知れません。明治時代の屯田兵のさきがけでもあります。なお勇払は、苫小牧市で歴史が最も古い地区で苫小牧発祥の地といわれています。

下記のボタンより、勇武津資料館紹介HP(苫小牧市HP内:教育・文化・スポーツ→文化施設・コミセン→勇武津資料館)でご覧いただけます。
引用;勇武津資料館刊 ミニブックシリーズ
写真;勇武津資料館パンフレットより

勇武津資料館